北陸地域の建設プロジェクトの一翼を担う総合建設コンサルタント

採用情報

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新潟県第二位の人口を擁し、中越大震災からの復興祈願花火「フェニックス」でも知られる、新潟県・長岡市。その中心市街地の渋滞緩和などを目的に、2013年(平成25年)11月に供用開始されたのが「長岡東西道路」だ。数十年間にわたる紆余曲折を経て、一旦の完成を見た一大プロジェクト。その足跡を追う。


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計画がスタートしたのは1994年(平成6年)12月。長岡東西道路は地域高規格道路の計画路線に指定された。地域高規格道路とは、高速道路と一体となって、地方都市を中心とした交通を活発化するための道路のこと。主担当の渡邊は4年をかけて、道路概略設計、路線整備方針検討および道路予備設計を実施。さらに1999年(平成11年)3月には都市計画決定の基礎資料を作成していた。都市計画決定の担当は長岡市、完成後の管理は新潟県、計画の認定は国土交通省となるため、三者の要望を受けながらのプランニングになる。調整能力は、コンサルタントにとって欠かせないスキルのひとつだ。

プロジェクトの発端は、実はさらに遡った時代にある。1977年(昭和52年)11月に決定された、長岡ニュータウン整備計画。その一環として「ニュータウンブリッジルート」という道路建設の構想があった。オイルショックなどの影響によって結局事業は停滞してしまったが、地域高規格道路への指定により、計画は内容の見直しを経て再始動した。信濃川が中心を流れる長岡市にとって、分断された東西をつなぐ道路や橋梁は市の発展に大きな意義を持つ。長岡東西道路は、市民の待望の道だったのである。

渡邊は当時をこう振り返る。
「長岡東西道路は、重要な役割を担う道路。中心市街地へのアクセスはもちろんのこと、救命救急センターへの搬送スピード向上や災害時の交通確保なども担い、安心して暮らせる地域づくりという意味でも欠かせない存在だった。都市計画決定を行う長岡市との調整を効率化するため、本社を離れて長岡事務所で作業した期間もあった。計画作成にあたって交差点ごとの交通量を推計した際は、コンピューターのシミュレーションだけでは、実際の動きを捉えきれないことがあった。そこで、地域を感覚的に理解している長岡市職員と議論を重ねること数十回。推計の精度を満足できるレベルまで上げることが出来た。もう20年以上前のことだが、ワンチームでプロジェクトを成し遂げられた部分で良い仕事が出来たと思っている。」

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プロジェクトは着々と進んでいた。平成11〜14年度にはふたたび道路予備設計を実施。また、景観検討委員会での審議を踏まえて、信濃川に架かる橋梁の種類も決定していた。ところが、2003年(平成15年)5月、地域高規格道路の構造要件が緩和。バブル崩壊や金融危機による国の財政悪化を受けて、道路整備のコスト縮減を目的にしたものだった。もともとは概ね時速80kmを維持でき、交差点は立体という要件だったが、時速60kmに変更され、平面交差点も容認。この変更によって、翌年に長岡東西道路も構造の見直しを余儀なくされた。
交差点を立体にするか、平面にするか。立体にすれば、速度を維持するという道路機能は向上するが、コストも上がる。平面にすれば、コストは抑えられるが機能は低下する。いくつも存在する交差点を一つひとつ検証し、機能とコストの適切なバランスを探す。地道な作業だ。見直しを担当するチームには、入社4年目の石井も参加していた。

石井は当時をこう振り返る。
「当時、経験したことないほど大規模なプロジェクトだった。自分の権限で決定できるというやりがいと、それによってプロジェクトの方向性が決まるというプレッシャー。その両方を感じた。道路機能を確保しつつ、どこまでコスト削減ができるのか。ベストな状態を探すのに苦労したのを覚えている。作業自体は、交通量推計の細かいシミュレーションや計算。そんな中、渡邊から受けたアドバイスがある。

「大きな視野で全体を捉える」

作業に集中すればするほど、視野が狭くなり、何のための仕事なのか忘れてしまいがち。当時の自分がまさにそうなっていた。このアドバイスは、今でも仕事をする上でのひとつのポリシーとなっている。」

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構造見直しが完了した後は、道路予備修正設計、暫定2車線道路詳細設計、各種道路構造物設計が実施された。プロジェクトの目玉とも言える、信濃川渡河橋梁「フェニックス大橋」のアプローチ道路は、開発技建の道路詳細設計に基づいて施工されている。2013年(平成25年)に、このフェニックス大橋を含む長岡市西宮内一丁目交差点から才津西町交差点の約3km区間が2車線で開通した。

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交通量は一日1万台を超え、長岡市の大動脈として市民に親しまれる長岡東西道路。だが、現在はまだ暫々定の完成でしかない。プロジェクトはまだ継続しており、まずは数年後の暫定2車線供用に向けた設計業務を、道路計画部の須佐が担当していた。

須佐は当時をこう振り返る。
「私が担当した詳細設計は、予備設計の後の工程。実際の工事に使われる、1mm単位の緻密な作業。そのため、作業量が膨大となり、計画の変更があると大きなロスに繋がる。ところが、このプロジェクトは期間そのものが長いため、地元協議が10年前という場合も。再び意見を集めると設計内容の変更を求められる場面もあり、一番苦労したのはその調整だった。だが、同時に大切なことも学んだ。

「自分で考え、判断する」

ただ指示された通りにやるのは、コンサルタントの仕事ではない。頭に徹底的に叩き込んでいる構造基準と自分のこれまでの経験を総動員して、「できる/できない」を的確に判断する。そして、できない場合にはその理由を説明する。ここで、技術者としてのコアとなる部分が培われたように思う。」

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地域高規格道路としてのプロジェクト開始から、20年以上。長岡市街地の活性化や防災機能の強化など、長岡東西道路はこれから大きな役割を果たしていくだろう。

そして、開発技建の技術者たちはすでに新たなプロジェクトに取り組んでいる。 人々の暮らしをより良くするという、誇りと責任を胸に抱きながら。

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